イラン出身のアスガー・ファルハディ監督の最新作『セールスマン』は、高い評価を受けた『別離』同様、見る者の感情をイヤというほど揺さぶる映画だ。主人公エマッドは、妻の襲撃事件に対し、言い知れぬ怒りを抱く。怒りの矛先は当然犯人の男に向かうが、犯人は見つからず、彼は事件を引き起こした原因すべてに苛立っていく。そして、以前の住人の女が客を取っていたことがわかると、女の顧客の中に犯人がいるのではと疑い始める。
神経質そうに顔をこわばらせ、ときに声を荒らげる彼の様子は、まわりの者たちに不穏な空気を伝染させていく。それは夫婦の間でも同様だ。何より戸惑うのは、彼の憎しみや怒りの対象が、被害者であるラナにまでおよぶように見えるからだ。
そこには、イランの女性たちが置かれた複雑な状況が影響する。ラナが夫と勘違いして玄関の鍵を開けたことや、バスルームで襲われたことに対し、アパートの住人たちはどこか微妙な反応を見せる。まるでラナ自身にも責任があるかのように。こうした無言の非難が、彼の怒りを複雑化させる。表面には表れない様々な要素は、彼だけでなく見ている側の感情にも影響を与え、観客は心をざわつかせながら画面を見守るしかない。
犯人探しをめぐる主人公の執念はやがて驚くべき結果をもたらす。その展開は、ミステリーとしても完璧だ。だがすべてが終わったあと印象に残るのは、夫婦それぞれの呆然とした顔だ。言いようのない消失感のなかで考える。果たしてこの事件のなかで、誰が本当に正しかったのだろう、と。
ここで、ジャン・ルノワールの名作『ゲームの規則』の名台詞「恐ろしいのは、すべての人間の言い分が正しいことだ」を思い出す。『ゲームの規則』では、まるでゲームのように恋愛を楽しむブルジョワ階級の人々を騒々しく映し出すが、最後には思いがけない悲劇が訪れる。だがその悲劇もまた、表面的にしか生きられない上流社会の人々にとってはゲームのひとつにすぎない。それは実に皮肉的だ。
エマッドが求めた正しさと、ラナが求めた正しさとの間にある大きな齟齬(そご)が、この事件に関わったすべての人々が、それぞれの正しさや論理を持つことを明らかにする。それこそが、本作で、そして人生でもっとも恐ろしい事実だ。

This Month Movie『セールスマン』
小劇団に属す教師エマッドは、妻のラナとともに戯曲「セールスマンの死」の上演準備中。だが引っ越し先のアパートで、ラナが侵入者に襲われ大怪我を負う。ラナは事件が表沙汰になるのを恐れ、被害届けの提出を拒むが、エマッドの怒りは収まらない。自ら犯人探しを始める彼と妻との間には、徐々に溝が生まれる。『別離』に続き、監督は本作で二度目のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
6月10日(土)よりBunkamuraル・シネマほかにて公開。
監督:アスガー・ファルハディ
出演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ
旧作もcheck!
『ゲームの規則』

フランスを代表する名匠が、狩りに集まったブルジョワ階級の人々の恋愛遊戯を社会風刺劇として描いた隠れた名作。1939年製作。
監督:ジャン・ルノワール
出演:マルセル・ダリオ、ノラ・グレゴール
ブルーレイ発売中 4800円 発売元:IVC
今月のはしごムービー
エリック・ロメール監督特集上映『ロメールと女たち 四季篇』

昨年も開催され話題を呼んだフランスの映画作家ロメールの特集上映。四季をテーマにした恋物語は、初夏の陽気にぴったり
角川シネマ有楽町にて6月23日(金)まで
http://mermaidfilms.co.jp/rohmer2017/
『ザ・ダンサー』

19世紀に活躍した舞踏家ロイ・フラーの半生。自らの体を痛めつけながら踊り続ける、その哀しい美しさに目を奪われる
新宿ピカデリーほかにて公開中。
監督:ステファニー・ディ・ジュースト
出演:ソーコ、リリー=ローズ・デップ、ギャスパー・ウリエル
『ありがとう、トニ・エルドマン』

仕事漬けの娘を心配した父は、トニ・エルドマンという別人になりきり娘の前に突如現れる。不器用な父娘の奇妙な交流喜劇
6月24日(土)よりシネスイッチ銀座ほかにて公開。
監督:マーレン・アデ
出演:ペーター・ジモニシェック
http://www.bitters.co.jp/tonierdmann/
つきなが りえ
編集者・ライター。〈映画酒場編集室〉名義で書籍、雑誌、映画パンフレットの編集・執筆を手がける。近すっかり出無精になっているので、夏休みはどこか遠くへ行きたい