SNSは人をつなげた。そこでの温かいコミュニケーションに救われたこともあるし、知らせたいことは遠くまで届く可能性が開かれている。日々の営みを記録していく場所であると同時に、苦しいときに声をあげられる場所でもある。多くの人がSNSを、インターネット上での自分の居場所にしているはずだ。
けれど、よいことばかりではない。SNSの力を最大限活用しようとする欲望は、インプレッションという名の注目を集めれば集めるほど満たされる。残念ながらいまや、嘘や間違いでも断定的であるほうが、善良であるよりも露悪的であるほうが多くの目を引きますよと、ビジネスの手法として喧伝されるほどだ。近年そこにさらに、生成AIの力が加わった。あらゆるフェイクが無限に生成できるようになり、SNSはいよいよ、まずその情報の真偽を疑ってかかるべき場になってしまったと感じる。
Podcastをはじめたのは、さすがにもうSNSを主な活動場所にしてはいられないと感じるようになったからだ。Podcastは、リスナーに見える数字はほとんどなく、マネタイズの手段も限られているぶん、わざわざ嘘で断定する人もいなければ、露悪的なものを不意に目にすることも少ない。内容を知るにはそれなりに長い話を聞かなければならないので、もちろんSNSのようにバズることはないが、炎上を目にすることもほぼない。もちろん今後どうなるかはわからないが、少なくとも現在、つまり何に似ているかというと、紙の本や雑誌に似ている。
私の番組は「本の惑星」という。一昨年にYouTubeで「本チャンネル」というのを先にはじめているけれど、そこはあくまで「チャンネル」であり、さまざまな人が登場する広場で、Podcastはその中のいち「番組」であり、私がひとりで話す部屋という位置づけだ。とはいえ実際は、SpotifyやApple Podcastで聞いてくださる人のほうが多い。毎週、原稿のような台本を書いて、日曜の夜に録音して、月曜の夜に編集して、火曜の正午に公開する。本と出版業界の仕組みやニュースをわかりやすく伝えつつ、その未来に関することや、まだまとまらない抽象的なことも、そのとき最新で考えていることを、本とは関係のない話も交えながらぐるぐると、わからないまま話す。いまはどうしても結果的に、AIの話題が多くなる。毎週続けるのはわりと大変だが、私にとっては単著を書いているときの時間のかけ方に近くて、いまはこの形が、ものを考えて発信するのにしっくりきている。
私がそう感じているからというのもあるが、きっとまだこれから多くの著者がPodcastをはじめるだろうし、Podcastからも多くの新たな著者が出てくるのではないかと思っている。そもそもAIの力で、音声を文字に書き起こすことや、話し言葉を書き言葉に換えることも、ずいぶんシームレスになった。散らかったメモを整えることも、わからない部分を調べることも、なんなら議論の甘い部分を補強することさえもできる。私は、いまはこの文章を書くのにそれらの技術をまったく使っていないが、しかしそれを証明することは多分できない。完全にAIが出力した文章ならまだいまは見抜けるかもしれないが、いずれそれもわからなくなるだろうし、少し人間が手を入れたら、それは人間の文章になる。そう考えると、これまでは書きながら考えるのが得意な人が著者になりやすかったが、いまは書くよりも話しながら考えるほうが得意な人も、著者になりやすくなったと感じている。
少し未来の、生成AIが充分に活用される本を想像してみる。それは読みながら対話ができる。特定の箇所を選択しながら「この数十ページは読み飛ばしたいから要約して」「ここが難しいから中学生でもわかるように説明して」「この議論の背景を解説して」「ここまでの流れを図示して」「こういう疑問を持ったけど著者はどう考えているかな」といった問いに答えてくれる。テキストを素材として読み込みながら生成することになるので、著作権をはじめクリアすべき課題はいくつかありそうだが、少なくともネット上の記事は既にそのように読まれているのだから、あとは著者や出版社がどう考えるかでしかないともいえる。そのとき、紙の本は求められなくなるだろうか。誰かにとっては、そうなるかもしれない。けれど一方で、誰かにとってはプロダクトとして、作品の可変しない原本として、印刷されたものとしての存在感をより強くするかもしれないとも思う。変化し続ける画面上の本と、固定された形を持つ美しい紙の本。むしろ役割がはっきりしてよいのではないかとも思える。
さらに未来を想像する。すべての知的労働をAIが担うようになり、私たち人間は何をしてよいかわからなくなる。生活はベーシックインカムによって保障され、すべては趣味になる。そのとき、私たちは考えることをやめるだろうか。そうはならないだろうと思う。いま私は重い石を持ち上げることも長時間走り続けることもできないが、たぶんかつてはそのような人間が生きていくのが困難な時代があった。いまは私のように身体能力が低くても生活に困ることはないが、それでも人間は健康のために、スポーツジムに行ってバーベルを挙げたりランニングマシンで走ったりする。それと同じで、たとえ生活に困ることがないとしても、やはり人間は考えずにいられないのではないか。そのとき本屋や図書館が、考えることにおけるスポーツジムのような役割を果たすのではないかと私は妄想する。
私は「本の惑星」でそんな話をしながら、私たちが本と出会う場所はまたあらためて増えるのではないか、増やすことが可能なのではないか、と真面目に思いはじめている。ベーシックインカム云々と書いたが、労働がなくなるかどうかはわからない。そうなるまでのプロセスが想像できないし、この資本主義社会に生きる人間は、仕事の効率が上がったそのぶん、また時間の限り仕事をすることをやめられないような気もする。とはいえどうなろうと、物語を読んで感想を話し合ったり、論考を読んで議論を交わしたりすることを、人間がやめるとは思えない。もちろん、このまま本屋が経営を続けていくためには流通の改革は急務だし、そもそもの本の形さえ、いまと同じとは限らない。何をもって本と呼ぶかにもよるだろうが、少なくとも私が「それも本だ」と思える何かは、むしろこれからより多く読まれる時代が訪れるのではないか。私はPodcastという壜を投げることで、そのような考えに共感したり反論をくれたりする仲間を少しずつ集めようとしている。
いま起こっているのは大きな変化だ。不安だってしっかり伴う。けれど抗うよりも楽しみたいと思う。私はPodcastで話しはじめてから、SNSで削られかけていた自分のことばに居場所が与えられたと感じていて、その居心地は本に似ている。
SHINTARO UCHINUMA
ブック・コーディネーター。株式会社NUMABOOKS代表取締役、株式会社バリューブックス取締役、新刊書店「本屋B&B」共同経営者、「日記屋 月日」店主。「本と人との出会い」をつくるために本にかかわるさまざまな仕事に従事し、現在も新プロジェクトが進行中。著書に『これからの本屋読本』(NHK出版)『本の逆襲』(朝日出版社)などがある。今年からポッドキャスト「本の惑星」をスタート。
@numabooks