©Yuriko Yamawaki

【絵本に再び出会う】思春期と絵本

コラム,

 中学2年生、思春期真っただ中のR君が家で発する言葉といえば「メシ」や「カネ」といった乱暴なものばかり。母親のHさんは、そういう時期だと頭では分かっていても、日々続く悪態にため息は深くなるばかりでした。

 ある日、Hさんが本棚を整理しているところを通りかかったR君は1冊の絵本を指さし、ぶっきらぼうに「それ、捨てるなよ」とだけ言い残しました。今度は、夫が通りかかり「これ捨てないで」と同じ絵本を指さしたのです。

 その絵本は「しょうぼうじどうしゃじぷた」(渡辺茂男・作 山本忠敬・絵、福音館書店)でした。ジープを改良した小型消防車の「じぷた」は小さいため周囲にばかにされていましたが、大型消防車が通れない場所にある山小屋火災で活躍する物語です。

 1冊の絵本に対する父子の同じ反応に、Hさんは驚いたといいます。夫は1㌻ずつめくりながら、「これ、毎日毎日、読まされたよなあ。この本は俺の子育ての思い出だよ」と懐かしみました。R君が小さな手でその絵本を大事に抱えながら父親の膝の上に座ってきたこと、絵本の中の言葉が気に入り何度も繰り返す姿がかわいくてビデオに撮ったこと、自転車に乗せて毎週のように消防署に通ったこと…。R君は大好きだったその絵本を、父親は息子と楽しんだ子育ての時間を覚えていたのです。

 Hさんはこの日の出来事を通じて、共働きで毎日を必死に過ごしてきた子育てが孤独ではなかったことに気づかされたそうです。と同時に、R君が絵本に対して見せた様子に、Hさんはたとえ悪態をついていても「この子はきっと大丈夫」と信頼のような気持ちが生まれ、肩の力がふっと抜けていったといいます。

 慌ただしい毎日の中でも、R君がまなざしを向ける世界に共に目を向け、家族で楽しみ味わってきた時間や経験が、R君の中に「何か」を残していることをHさんは感じたのでした。そして、その小さな信頼が、思春期の子育てに戸惑い悩む自分を支え、励ましてくれたとHさんは振り返りました。

 R君は今、社会人1年生になりました。R君と父親が再びあの絵本を手に取る日を、Hさんは楽しみにしているそうです。

(国立音楽大教授 林浩子)

2017年3月3日産経新聞掲載


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