一人の人物の人生を記録するとともに、彼/彼女が生きた歴史を描いた物語でもある。『トム・オブ・フィンランド』はまさにそんな伝記映画だ。ここでは、ある一人のアーティストの苦難に満ちた人生を描きながら、戦後フィンランドの激動の歴史を映し出す。タイトルは、フィンランド出身の画家トウコ・ラークソネンが、自らの正体を隠すために用いたペンネーム。
第二次世界大戦後、同性愛が厳しく禁じられていたフィンランドで、帰還兵トウコは、同性愛者であることを隠しながら生きていた。正体を明かせるのは、夜の公園、隠れた集会など、暗い闇のなかでだけ。彼は、広告代理店での仕事のかたわら、官能的な男たちの絵を描くことで自分の欲望を発散し始める。仲間内で密かに鑑賞されていた彼の絵は、やがて世界中に広まり、トウコは、ゲイ・アーティスト“トム”として知られるようになる。
革ジャンに身を包んだ、筋肉隆々の男たち。過激な性表現を含むトムの絵は、ときに見る者をギョッとさせる。だが反逆としての彼のポルノ・アートこそが、マイノリティであるゲイ男性たちを励まし、希望を与える。ゲイカルチャーのシンボルとなったその絵は、クイーンのフレディ・マーキュリーなど多くのアーティストたちにも影響を与えたという。
戦地での体験、権力による弾圧、恋人との出会いと別れ、アメリカでの人気、エイズの脅威。四十年以上の長い時間のなかで、同性愛への社会の対応も大きく変化する。トウコ/トムは、強い信念を貫く気高い芸術家とは少し違う。彼はただ生きる自由、表現する自由を求めて描き続け、時代と共に徐々に自分の絵の影響力を理解していく。
ここには、光と影の両側面がある。人間の欲望は、ときに過剰に暴走するからだ。画面の片隅にいる女たちの孤独にも、引き寄せられる。彼の絵を芸術として認められないトウコの妹。夫が男たちと抱き合うさまを見つめる、トウコの上官の妻。彼女たちの、ぼんやりとした眼差しが忘れられない。
『トム・オブ・フィンランド』は、自分を隠すことを余儀なくされた者たちの、欲望の解放をめぐる物語。彼らの長い闘いの軌跡を、まずはしっかりと見届けたい。彼らはもう二度と、闇のなかに戻りはしない。
This Month Movie『トム・オブ・フィンランド』
第二次大戦後のフィンランド、広告代理店で働く帰還兵トウコ・ラークソネンは、同性愛者であることを家族や同僚に隠しながら、美しく逞しい男たちの絵を密かに描き続けていた。やがて「トム・オブ・フィンランド」というペンネームで描かれたトウコの絵は、海を渡り、ゲイ男性たちのアイコンとして広まっていく。有名ゲイ・アーティストの知られざる生涯を描いた一作。
ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中。
監督:ドメ・カルコスキ
出演:ペッカ・ストラング、ジェシカ・グラボウスキー、ラウリ・ティルカネン
旧作もcheck!
『ファスビンダーのケレル』
港町を舞台に繰り広げられる男たちの愛と欲望の物語。ドイツの映画作家ファスビンダーが描く男たちの造形は、トムの世界観にも通じる。
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ブルーレイ:5800円
発売元:シネマクガフィン
販売元:紀伊國屋書店