真っ赤な車のなかで、二人の男女がまっすぐに前を見つめている。沈黙のときも、言葉を交わすときも、彼らの視線は交わらない。そうか、車という乗り物は、相手と向きあわないまま話ができる空間なのだと、この映画を見てあらためて気づかされた。
原作は、村上春樹の短編小説。妻・音を亡くした演出家で俳優の家福と、彼が運転手として雇った女性みさきとの奇妙な関係を、車内での会話を通じて描く。映画では、このシンプルな小説を中心に置きつつ、登場人物それぞれから発展したいくつものドラマを盛り込み、壮大な物語へと発展させる。
夫婦の性をめぐるドラマ。愛する者の死を受け入れるまでの旅路。芸術のあり方を問う対話。多くの物語を盛り込むなか、映画独自のもっとも大きな要素は、家福が演出家としてつくっていく舞台劇。妻の死後、広島の演劇祭に招かれた彼は、アジア各国から俳優を募り、多言語によるチェーホフ劇『ワーニャ伯父さん』を用意する。
稽古場では、若い俳優たちのあいだに恋愛に似たなにかが発生し、演出方法をめぐり演出家と俳優が対立する。家福は常に冷静だが、主役に抜擢した若手俳優・高槻に対してだけは、なにかひっかかりがあるようだ。
稽古場でのドラマと並行して、家福の専属ドライバーとなったみさきとの物語もスリリングに展開する。高度な運転技術を持ちながら寡黙さを貫くみさきに、家福はいつしか興味を抱く。だが彼らはほとんど言葉を交わさず、台詞を覚えるためテープに録音された声だけが二人をつなぐ。その沈黙が破られるとき、彼らの過去が複雑に絡みあう。やがて私たちは驚くべき世界へと誘われる。
これは、他者と正面から向きあえなかった者たちの物語。何度も抱きあい、会話しながら、男は本当の意味で妻と向きあえず、彼女を失った。どうすれば人は誰かと向きあえるのか。相手を見つめ、見つめられるにはどうしたらいいか。言葉を届けるにはどうするか。その問いの答えを、映画は、長大な上映時間をかけ描きだす。
たくさんの言葉と長い長い移動を経て、バラバラだった人生が、あるときふと重なりあう。この奇跡のような一瞬が立ち上がるまでには、一七九分という時間がたしかに必要だった。
This Month Movie『ドライブ・マイ・カー』
舞台俳優で演出家の家福(かふく)は、脚本家の妻・音(おと)を、ある日突然失ってしまう。2年後、広島の演劇祭に招かれた家福は、専属ドライバーとして、寡黙な女性みさきを紹介される。当初は自分の愛車を任せるのを渋っていた家福も、見事な運転技術を持つみさきを見るうち、徐々に信頼を寄せていく。そんななか、彼の前に大きな問題が立ちはだかる。
カンヌ国際映画祭で脚本賞ほか3賞を受賞。原作は村上春樹の小説。
8月20日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほかにて公開。
監督:濱口竜介
出演:西島秀俊、三浦透子、岡田将生ほか
旧作もcheck!
『桜桃の味 ニューマスター版』
自動車映画といえばやはりキアロスタミ映画。人生に絶望した男が、ある目的のため同乗者を探し求める、奇妙なロードムービー。
監督:アッバス・キアロスタミ
Blu-ray:5280円
発売・販売:TCエンタテインメント