何かにひたむきに邁進する人の視線がいかに美しいのか、この映画を見て初めて気がついた。視線の持ち主は、生まれつき聴覚障害のあるプロボクサーのケイコ。鏡の前の自分の体を、ジムのトレーナーの動きを、試合中の対戦相手の拳を、彼女はただ一心に見つめつづける。
ケイコは、日々同じ動作を反復する。ホテルでの仕事のあと、下町にある小さなジムで練習に励み、家に帰れば練習に使った衣類を洗濯し、道具を片付ける。朝はジョギングし、ときにはジムの会長と一緒に川沿いで練習をする。彼女は規則正しく、自分を律した生活を続けている。
そんな彼女が、ある日ふと立ちすくむ。歩みを止めた原因は、娘を心配する母の何気ない一言からか。自分を育ててくれたジムの閉鎖のせいか。理由がなんであれ、一度動きを止めた体は、そう簡単に元には戻らない。当然のように続けていたルーティンが変わり、日常の歯車が少しずつ崩れ始める。以前の日常に戻りたいのか、すべてをやめて新しい何かを始めたいのか、自分の目指す場所がわからない。
ケイコの逡巡は、コロナ禍で動きを止めてしまった街の景色とも重なり合う。毎日同じように見ていたものが、まったく別の景色に変わってしまう恐ろしさ。その恐怖に身を縮ませながら、ケイコは自分のまわりにいる人々をじっと観察し、何度も歩いてきた道を辿り直す。そうして彼女がもう一度顔を上げふっと息を吐き出す瞬間を、私たちは息を飲んで待ちつづける。
ケイコは再びリングの上でステップを踏み始める。そんな彼女の動きに共鳴するかのように、周囲の人々の体もまたいつしか動き出す。それはまるでダンスのようだ。相手を見つめ、手を振り、足を動かすこと。単純な身ぶりとまっすぐな視線が、人々を前へ前へと押し進める。
終わりはいつかやってくる。ジムの今後も、ボクサーとしての未来も見えないまま。それでもケイコは前を向く。顔を上げ、まっすぐに道を駆け上がる。彼女の身ぶりや視線を必死で追いかけながら、ハッと気づく。ただじっと誰かの姿を見つめ、目に焼き付けること。そしてその動きに自分の体を委ねること。映画とは、こんな単純さからできているのだ。

ケイコ役の岸井ゆきのはもちろん、彼女を支えるジムの会長役の三浦友和の存在感にも心を奪われた。
This Month Movie
『ケイコ 目を澄ませて』
プロボクサーとして活躍するケイコ。生まれつき両耳が聞こえない彼女は、下町の小さなボクシングジムに通い、日々練習を続けている。だが試合を重ねるうち、彼女の心に徐々に迷いが生じ始める。そんななか、ジムの閉鎖が決まり、ケイコの心はさらに揺れ動く。実際に聴覚障害を持ち、プロボクサーとして活躍した小笠原恵子さんをモデルに、『きみの鳥はうたえる』の三宅唱監督が描く、ひとりの女性の物語。
12月16日(金)よりテアトル新宿ほかにて公開。
監督:三宅唱
出演:岸井ゆきの、三浦友和
旧作もcheck!
『バンド・ワゴン』

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ケイコがジムでシャドーボクシングをするシーンは、あたかもこの映画のダンスシーンのようだった。
監督:ビンセント・ミネリ
Blu-ray:2619円
発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント