没後30年を過ぎ、ますます評価が高まるアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキア。
彼の日本初となる、本格的な展覧会が六本木で現在開催中!
落札額123億円! あの作品を見るチャンス
2017年5月17日、ニューヨークのオークションハウス「サザビーズ」で、1枚のキャンバス作品が落札された。この瞬間、オークション史上最も高値で売却されたアメリカ人アーティスト作品となったのが、バスキアのペインティングだ。落札したのは株式会社ZOZOの元代表取締役社長・前澤友作氏。その落札額は1億1048万7500ドル(約123億円)にも上った。
この作品を含む約130点のバスキア作品を世界中から集めた展覧会「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」が、現在六本木で開催されている。
1960年にブルックリンで生まれたバスキアは、27歳という若さでその生涯を閉じた。作家としての活動期間は、10年にも満たない。彼はその短い人生で、約1000点の絵画と3000点を超すドローイングを残したと言われているが、彼の活動していた1980年代と現代とでは、その評価が異なっている。
コンセプチュアル・アートへの反動から、80年代にブームを巻き起こしたニューペインティングは、ギャラリーが戦略的に売り出したものもあり、当初から批判する批評家も多かった。一部の例外を除き、現在ではその存在感はすっかり薄れてしまっている。一方、バスキアは違う。彼は没後再評価され、その評価は今日にいたるまで高まり続けている。再評価のきっかけは、1992年にホイットニー美術館で開催された大規模な回顧展だった。バスキア展の日本側の監修者である宮下規久朗氏によると、この展覧会で“ニューペインティングのアーティストたちとは一線を画す豊かな創造性が認識され、また作品に垣間見られる人種問題やアフリカ的な性格から再評価された”のだと言う。その後も彼の評価はどんどん高まる。本展の監修者であるディーター・ブッフハート氏の企画によってオンタリオ、ロンドン、フランクフルト、パリなどで大規模な展覧会が次々と開催。冒頭で紹介したように、市場での作品価格も高騰している。ただし、バスキアの美術史的研究はようやく始まったばかりだとも言われている。バスキアは、すでに「黒いピカソ」と評されるほどにまでなっているが、今後もさらに評価が高まる可能性のあるアーティストなのだ。
本展の目的のひとつは、そんなバスキアと日本との関わりを探るところにある。じつは、バスキアは日本とのつながりが強かった。1982年の初来日を含め来日は3度。個展を6回、グループ展を10回開催した。作品には、¥記号や平仮名を取り入れたり、ゴジラや鉄人28号をモチーフとした作品もある。伝統的なものというよりも、当時の日本が誇っていた経済力や技術の先進性・革新性、そういったモチーフが彼の作品から見ることができる。かつての経済的に大きく成長していた日本にバスキアが何を感じたのか、そんなことを考えながらこの展示をめぐるのも、ひとつの楽しみ方だろう。
もちろん、何も考えずに彼の作品の前にただ立つだけでもいい。力強いタッチと色彩、そこから発せられるエネルギーに身をさらすだけでも、きっと何かを感じられるはずだ。
Onion Gum, 1983
Courtesy Van de Weghe Fine Art, New York
Photo: Camerarts, New York
Artwork © Estate of Jean-Michel Basquiat.
Licensed by Artestar, New York
Napoleon, 1982
Private Collection
Photo: John R. Glembin
Artwork © Estate of Jean-Michel Basquiat.
Licensed by Artestar, New York
Plastic Sax, 1984
agnes b. collection
Artwork © Estate of Jean-Michel Basquiat.
Licensed by Artestar, New York
Fooey, 1982
The Museum of Art, Kochi
Artwork © Estate of Jean-Michel Basquiat.
Licensed by Artestar, New York
Jean-Michel Basquiat
ジャン=ミシェル・バスキア
1960年、米国ニューヨーク・ブルックリン生まれ。1977~79年、マンハッタンのストリートでアル・ディアスとSAMO©の名で手がけた詩的なグラフィティで名を馳せる。1980年、伝説的なグループ展「タイムズ・スクエア・ショウ」で絵画作品を初めて展示。1981年には「ニューヨーク/ニューウェーブ」展に参加。同年、ガレリア・エミリオ・マッツォーリ(イタリア/モデナ)で自身初の個展を開き、翌年には、アメリカで初となる個展をアニナ・ノセイ・ギャラリー(ニューヨーク)で開催するなどして、評価を確立し、経済的成功を収めた。1982年には最年少で国際美術展「ドクメンタ7」、1983年に現代美術の特別展「ホイットニー・バイエニアル」参加。アンディ・ウォーホル、キース・ヘリングなど当時を象徴するアーティストと交流を深め、80年代のニューヨークのアートシーンで旋風を巻き起こしたが、わずか27歳で悲劇的な死を遂げた。