引きで見れば映画のような橋をゆく一人称のからだひとつで
夏に引っ越しをした。新しく住み始めた街は、縁もゆかりもない場所だったけれど、部屋からの眺めが気に入って、気づけばそこに決めていた。
何も知らない土地を散歩する。その日の気分で、気になる道を歩く。夏の間は暑くてほとんど散策できなかったけれど、それでも涼しい朝や日が落ちた時間帯に、ゆっくりと、遠くまで歩いた。
夜の散歩ルートには、明るい道を選んだ。近所には川が流れていて、そこを渡るための大きな橋がある。車道を挟むように両側に歩道があり、一直線に並んだ街灯が、夜の橋を光の帯へと変えていた。ワイヤレスイヤフォンを耳にはめこんで、ラジオや音楽を聴きながら黙々と歩いた。考え事をやめたいときはラジオ。とにかく考えたり、感じたりしたいときは音楽。
川の向こう岸に、私の知らない街が見える。山の斜面に建物が並んでいて、一つ一つの部屋の明かりが点描のように集まり、夜景になっている。昼にはまだ渡ったことのないこの橋を、夜の間だけ私は歩く。知らないあの街は、昼間どんな顔をしているのだろう。夜景でしかみたことのない対岸の光は、今夜も、まぼろしのようにそこにある。
岡本真帆(おかもと・まほ)
歌人・作家。1989年生まれ。高知県出身。2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』(ナナロク社)、2024年に第二歌集『あかるい花束』(ナナロク社)を刊行。最新刊に、自身の好きなものを短歌とエッセイで表現した『落雷と祝福』(朝日新聞出版)がある。