初めて見たレオス・カラックスの映画は『ポーラX』だった。運命的に出会った男と女が、すべてを捨ててさまよい、地獄の淵を覗き込む。ひどくおぞましい何かを目撃してしまったようで、この映画は、私の頭に強く焼きついた。
だからこそ、カラックス監督の久々の新作として発表された『アネット』には驚かされた。冒頭、監督本人と、この映画の原案と音楽を手がけたバンドのスパークス、俳優たちが次々に登場し、楽しげに歌いながら道路を歩いていく。さあいまからショーが始まりますよという幕開けの挨拶。なんとも大胆でユーモラスな始まり方は、これまでのカラックス映画とはまるで違って見えた。
物語は、ある意味とても古典的。スタンダップコメディアンのヘンリーとオペラ歌手のアンは恋に落ち、結ばれるが、やがて破滅に向かう。ただし彼らの会話はすべて歌によって表され、ときに愛の成就を、ときに激しい対立を奏でていく。ミュージカル形式に合わせてか、物語を彩る風景は、不思議なほどリアリティが欠けている。二人のあいだに生まれた娘アネットが、人形によって演じられることにも驚く。一方で、不意に残酷な現実がありありと映り込み、見る者を魅了する。
愛の物語にはすぐに影が差す。いつしか人気を失ったヘンリーは、アンの成功に嫉妬を抱き、彼女を憎む。やがて娘が奇跡のような歌の才能を持つことに気づいた彼は、今度は彼女の才能を搾取し、利用し尽くす。女を傷つけずにいられない邪悪な男と、男によって滅ぼされる哀れな女。これまで数々の映画が描いてきた、おぞましい愛と破滅の物語が繰り返される。
かすかな希望は、アネットに託される。少女は、凶暴な父に屈することも、か弱き母を憐れむこともせず、ただ歌を歌い、自分の足で立ち上がる。語り尽くされた男と女の悲劇から、見たことのない少女の自立の物語へと、映画は姿を変える。
この映画を言い表す言葉を、私はいまだ見つけられずにいる。何度見ても、不思議な快感と、激しい恐怖とが入り混じり、言葉を失う。何があろうと人生は続き、映画はつくられる、と高らかに宣言し『アネット』は幕を閉じる。あとには、清々しさだけが残っていた。

監督、俳優たちが歌いながら歩き続ける、幕開けの場面にまず魅せられる。
This Month Movie
『アネット』
熱烈な恋に落ち、結婚したスタンダップコメディアンのヘンリーと、人気オペラ歌手のアン。やがて二人のあいだには娘アネットが生まれるが、ヘンリーの人気に陰りが見え始めたのを機に、夫婦の関係は徐々に壊れていく。そして悪夢のような夜が訪れたとき、アネットの身に不思議な出来事が起こる。フランスの鬼才レオス・カラックスの久々の新作は、愛の崩壊と驚くべき奇跡を描いた奇想天外なミュージカル。
ユーロスペースほかにて公開中。
監督:レオス・カラックス
出演:アダム・ドライバー、マリオン・コティヤール
旧作もcheck!
『ホーリー・モーターズ』

©2011Pierre Grise Productions-Arte France Cinéma-Pandora Film-Theo Films-WDR/Arte
カラックスの前作のこちらもやはり奇抜さに満ちた怪作。『アネット』と同様、ここでもミュージカルシーンが一部登場する。
監督:レオス・カラックス
ブルーレイ:2750円
販売:キングレコード