俳優を引退し、アメリカに移住したサンオクが、久々に韓国へ帰ってきた。サンオクは、妹のジョンオクが住むソウルの高層マンションに滞在しているが、午後には、ある人とランチの約束があるという。そこで約束の時間まで、彼女はソウルの街をぶらぶら散策することに。
妹との散歩中に出会った、女性二人との些細な会話。甥が営むトッポッキ屋でのちょっとしたアクシデント。昔住んでいた家で出会った、ひとりの少女。断片的に描かれる一日の出来事は、どれもごく小さな物語に過ぎない。でもそれらが連なるうち、ひとりの女性の人生が徐々に浮かび上がる。
同時に、私たちは、ここには不穏な何かが隠れていると気づく。その何かとは、トッポッキ屋でサンオクが服につけてしまったシミと同じ。遠目にはほとんど見えない小さなシミ。けれどそれは消えることなく、画面のどこかに潜み、じわじわと不穏さを掻き立てる。
たとえば妹との和やかな会話は、二人の未来に触れるなかで、不意に緊迫する。そういえば、誰かが未来について話そうとするたび、彼女本人は言葉をにごし、現在についてだけ語ろうとしていた。どうやらサンオクの人生には、触れてはいけない何かが隠されているらしい。
午後になり、サンオクは自分を慕う監督と初めて対面する。監督は彼女が過去に出演した映画を賞賛し、一緒につくりたい未来の映画について語りだす。お酒に酔って気を緩めたのか、サンオクは、ここで初めて自分の未来を口にする。だが二人の未来は微妙に噛み合わない。そうして、ホン・サンスのこれまでの映画ではありえなかった、驚くほど情動的なシーンが展開する。
この映画を見ながら、ずっとサンオクの横顔を見つめていたような気がする。彼女はいつも目の前にいる誰かをじっと眺め、ときおり遠くへ視線を投げる。道端にしゃがみこみタバコを吸う姿すら輝いて見えるのは、その謎めいた視線のせいだ。
久々の故郷で過ごした一日が終わり、朝を迎えた彼女は、怒りや悲しみ、いくつもの感情を含んだ不思議な笑い声をあげる。それでも彼女は、いま、目の前にあるものだけを見つめ続ける。最後の最後、彼女が投げかけるまっすぐな視線は、ただただ美しかった。

サンオク役のイ・ヘヨンは韓国を代表するベテラン女優。ホン・サンス映画にはこれが初出演。
This Month Movie
『あなたの顔の前に』
かつて韓国で俳優として活躍したサンオクが、長年暮らしたアメリカから、久々に帰国する。妹ジョンオクは姉との再会を喜ぶが、突然の帰郷の理由はわからない。ソウルの街を歩きながら、サンオクは、ある映画監督との待ち合わせ場所へ向かう。その道中を見守るうち、彼女の心に隠されたものが徐々に見えてくる。ホン・サンス監督が描く、ひとりの中年女性の美しきポートレイト。
6月24日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開。
監督:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン、チョ・ユニ、クォン・ヘヒョ
旧作もcheck!
『オープニング・ナイト』

©1977 Faces Distribution Corporation
舞台の初日を前に、女優が過ごす不穏な一夜をスリリングに捉えた本作。カメラは、ひとりの女性の顔の変化を追い続ける。
監督:ジョン・カサヴェテス
DVD:4180円
発売:キングレコード